八反坊
江戸時代の初め、栗田に八反坊というという人が住んでいました。
八反坊は年貢の割り当てや取り立てに当っていた公事人といわれ、弱い百姓が分限者からいじめられるようなことがあると、いつも弱い人達に味方して助けていましたので、百姓達から大変慕われていました。
ところが反対に分限者達からは嫌われ、何とかして八反坊を亡きものにしようと、あるとき、無実の罪をでっちあげ庄屋に訴えました。
庄屋もまた八反坊を快く思っていなかったので、ある日、ありもせぬ罪を着せて獄に入れ、村人を扇動せぬよう身を慎むように迫りましたが、八反坊は聞きいれず、ついに餓死しました。
百姓達は、情深く、義に厚く、村人に慕われていた八反坊の遺言どおり、庄屋の家のよく見えるこの地に、ていねいに葬りました。
それから庄屋にはよくないことが続き、絶えてしまったということです。
その後、お墓の上に祠が建てられ「八反坊」と呼んで、地元の人達が毎年お祭りを続けています。
一時期「のろい」の神として恐れられていた時もありましたが、今は事業の成功、病気の全快、その他困っている人達を助けて願いが成就することから、大願成就の神様として多くの人に親しまれています。
丑の刻参り
八反坊伝説のせいかいまだに丑の刻参りをする者がいる。
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